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原 礁吾

なぜGame Senseなのか?

更新日:2020年2月8日


 原礁吾です。前回の記事では、ゲーム中心の指導法とは何か、について書きました。Game Senseとドリル練習の違いや、利点について学術的な知見と、私自身がGame Senseを実施して感じたことについて書きました。今回の記事では、なぜGame Senseが推奨されているのか、という理由について学習の観点とゲーム中心の練習と伝統的な練習(ドリル練習)を比較した研究を用いて書いていきます。ここで用いる「知識」という言葉は、「わかる」知識は当然ですが、「できる」ことも含めて「知識」と読んでいることを予め記しておきます。


学習観からみたドリル練習とGame Sense

 ドリル練習は学習観からすれば実証主義に基づいた練習であると考えられます。実証主義における学習では、学習者である選手は何も書かれていない白板で、その白板へ正確に知識を書き写していくようなものだと比喩できます。つまり、ドリル練習とは知識を持っているコーチから、知識を持っていない選手達(学習者)へ知識を伝達しようとするものです。

 なぜ、知識の伝達では選手がうまくなりにくいと考えられる理由を考えてみます。何かの専門書を読んだとき、その書いてある内容を理解するのに必要な背景知識がないと、用語の解説がされていても何のことだか分からないということはしばしばあると思います。新しいことを学ぶときには、それ以前の学びの結果が影響します。好ましくないと思われる技術的な癖を持つ人を想像してみてください。コーチが新しいことを教えようとしても、それまでの癖が消えてくれることは稀です。そして、その癖に基づく次の技術の習得がなされます。つまり、コーチは選手の知識として技術を直接書き込むことはできず、何をどう学び取るかは学習者次第(過去の経験を含め)なのです。本人以外が書き込もうとしても書き込めない、学習効果が上がらないということになります。

 また、ドリル練習ではほとんどの場合、コーチが試合で用いる技術を取り出し、合理的だと思っている方法で繰り返し選手にやらせてその技術を獲得させようとしています。それがなぜ取り出されたのか、試合のさまざまな要素とどう関係しあっているのかなどは無視され、選手は言われたメニューをこなすことで、「機械的に」その技術を身体に覚え込まされます。

 試合という「全体」を合理的に要素に分解して練習を行い、最後にゲーム形式の練習で統合しようとしても、気づかないうちに多くの要素が削り落とされてしまっていて、全体が思ったように機能しません。あたかも、子どもが時計を分解して組み立てようとしてもうまくいかないような感じです。全体がシステムとして機能している人の体を分解して、パーツを組み立てていくのは、フランケンシュタイン現象と言ってもよいかもしれません。システムとして機能している全体のゲームの大切な部分を、選手自身が経験を通して理解していくのではなく、コーチが過去の経験で構成した知識をもとにしたドリル練習はコーチ中心の指導法であり、試合に活きるスキルの獲得という観点からは疑問の残る方法だと言えます。

 一方で、ゲーム中心で構成された練習は構成主義的な学習観に基づいた練習方法です。構成主義的な学習観における学習では、学習者である選手が、与えられた環境の中でコーチや他の選手とコミュニケーションをとったり、自己内コミュニケーションを行うことで、その環境を通じて知識を構成していくとされています。ゲーム中心の指導法では他者の知識を選手にコピーしようとするのでなく、ゲームの文脈の中で再現された、獲得して欲しい知識(スキル遂行能力、戦術的知識、仲間とのコミュニケーション、解決したい課題など)を選手自身が発見し自身の知識として構築していきます。ゲームの文脈のなかでターゲットとなる知識を学ぶことになるため、いつ、どこで、何を見るか、なぜその課題が発生するかといった、獲得して欲しい知識が発生する過程も合わせて学習されていきます。

 構成主義の学習を説明している論文でも久保田(1995)は、「1.学習とは、学習者自身が知識を構成していく過程である。2.知識は状況に依存している。3.学習は共同体の中で相互作用を通じて行われる。」と説明しています。つまり、学習者により効果的な学習を発生させるためには知識のみを伝達するのではなく、知識を構成するための環境を整え、コーチと選手、選手と選手が相互作用していくことが必要になります。

 また、構成主義的な学習観を共有する学習論の一つとして、ヴィゴツキーの発達の最近接領域というものがあります。学習者が一人では解決できない問題に直面したときに、誰か(あるいは何か:MKO=More Knowledgeable Other)の支援を得ることでその課題を解決していくことがあります。適切な支援によって「自分でできた」を経験していくことで、自分一人ででも出来るようになっていきます。しかし、コーチや親が課題解決そのものをしてしまっては、本当に大切な課題解決のプロセスを経験する機会が奪われてしまいます。コーチが行うべきは、問題を解決するための学習環境を整え、適切な支援をすることです。つまり、コーチは選手に知識を伝達する役割ではなく、選手が知識を構成していくための環境作りをしていく役割を担っていると言えます。


ゲーム中心の練習とドリル練習の効果の比較

 Ghanati and MohammadZadeh(2018)がバスケットボールを題材にして行った、修正されたゲーム中心の練習方法と伝統的な練習(ドリル練習)の効果を比較した研究があります。参加者全員がプレテストを受け、参加者のスキルレベルがほぼ等しくなるように45人の中から30人が選ばれました。選ばれた30人の参加者は誰一人もバスケットボールの競技経験はありませんでした。チームの分け方はランダムに行われ、一つ目のチームは修正されたゲーム中心のグループ、二つ目は伝統的な練習のグループに分けられました。2つのチームの合計で18回のセッションが行われ、被験者は事前テストと事後テストの二段階で評価されました。結果としては、両グループともショットでは有意な結果を得る事ができましたが、ドリブルでは有意な結果を得る事ができませんでした。しかし、パステクニックの結果では、修正されたゲーム中心の練習を行ったグループの方が有意な向上を得る事ができましたが、伝統的な練習のグループは有意な結果を得る事ができませんでした。これらの結果から分かることは、伝統的な練習を行うよりも修正されたゲーム中心の練習を行う方が、練習の効果が高い事がわかります。

 以上の様な観点からドリル練習や闇雲にゲーム形式の練習を行うより、コーチによってデザインされたゲームの中で練習を行う方が学習の効果を得られることが言えそうですが、まだまだ確実にそれをいうためにはもっとエビデンスが揃う必要があるかもしれません。。

 例えばラグビーのGame Senseメニューの中でオフロードパスというスキルの獲得を狙った練習を行ったときに、Game Senseメニューではオフロードパスのスキル獲得を狙う攻撃側チームだけでなく守備側にもアプローチをする事ができます。練習の中で「オフロードパスを防ぐにはどのようなことをすれば、繋ぎづらくする事ができるだろうか?」と発問することによって守備側もオフロードパスを阻止するスキルを獲得する事ができ、攻撃側もより駆け引きが行われる中でスキルを磨く事ができます。このようにGame Senseメニューというのは、ひとつの練習の中でいくつものスキルを身につける事ができ、また、”実行する”そしてそれを”阻止する”という駆け引きが生まれるため、よりレベルが高い中で練習を行う事ができます。


 今回の記事では、学習の観点からみたGame Senseとドリル練習、そして実際に行われたゲーム中心の練習と伝統的な練習(ドリル練習)の比較の結果を引用して書いてみました。今回の記事を読んで、多くの方がGame Senseの有効性を理解してくれたら幸いです。

 余談ですが、以前、中学生に練習メニューを考えさせ行わせた時に、私からの支援がない中でも生徒がGame Senseメニューを考案し、実施してくれました。また、私の個人的な意見ですが、ゲーム中心の指導法を長く受けた生徒の方がミーティングの時によく喋り、具体的な結論に持っていく力が強いと感じます。データなどの根拠を示すことができないので正確性には欠けますが、ゲーム中心の指導法では生徒同士が話す機会が多いので、練習での習慣がミーティングという場に変わっても発揮されたのだと思います。

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