第14回「ハイパフォーマンスコーチング」
- 伊藤雅充

- 2022年9月2日
- 読了時間: 20分
更新日:11月18日
2022年度後学期コーチング学
皆さんは、「ハイパフォーマンス」という言葉を知っていますか?
この言葉は、主にコンピューターの性能を表したり、車の性能を表したりすることに使われていた言葉でした。しかし、近年はスポーツ界でも使用されるようになり、プロフェッショナルスポーツやオリンピックなどの高い競技力を有するスポーツ領域のことを「ハイパフォーマンススポーツ」と呼んでおり、「スポーツの卓越性を目指すスポーツ活動」(文部科学省.2018)と定義されています。「ハイパフォーマンスコーチング」とは、その領域に対する「コーチング」を指します。この領域のスポーツは、「勝負の勝ち負け」が主命となることが一般的であり、自身の所属だけではなく、国や地域の代表として競技会などに出場する機会を得ることとなります。
高度化されたパフォーマンス
近年、このハイパフォーマンス領域のパフォーマンスはどんどん高度化され、スピードやパワー、技の難易度が高まっています。このハイパフォーマンス領域で活躍するアスリート達は、日々、新たな領域へチャレンジしていることになります。この新たな領域へのチャレンジは、一般の人から見ると超人的であり、常軌を逸したもののように映るでしょう。この高度化されたパフォーマンスは、より速く、より力強く、より正確な動作が求められます。その結果、アスリート達はより大きな筋力発揮や高い心肺機能などが求められ、非常に高い強度でのトレーニングをこなすこととなります。この高強度のトレーニングは、心身への負担も大きく、トレーニングに対するストレスや競技成績に対する不安、各関節に対する負荷や骨への衝撃などが必要以上に繰り返されると、怪我や内臓疾患などの体調不良に陥ることもあり、闇雲に高強度のトレーニングを詰め込めばよいといったものではありません。この高度化されたパフォーマンスの獲得には、競技特性を十分理解したうえで継続的で適切な刺激を考慮したトレーニング計画を立案することが必要になります。このため、アスリートは年間を通じて継続的なトレーニングが実施され、適切な種類のトレーニングを至適な強度、最適な頻度で実施することが必要になります。この高度化には、バイオメカニクスや運動生理学、スポーツ心理学などのスポーツ科学の進歩が大きく関与しています。例えばスポーツ科学を利用して、実際の競技会のパフォーマンスを分析することにより、今まで主観的なコーチの勘で行ってきたパフォーマンスの評価や改善点の抽出などが、客観的に数値化され、より真実に近い情報を得られるようになり、パフォーマンスの改善をピンポイントで行うことが可能になりました。また、トレーニング中の運動強度をモニタリングすることにより、狙ったターゲットゾーンでの負荷を掛けることが可能になり、無駄のない効果的なトレーニングメニューを組むことができるようになりました。更に、コーチ一人がアスリートに関与していた時代から、専門性を持った複数のアントラージュがチームを組んで多角的にアスリートに関与することによって、一人のアスリートをより細部まで分析、評価することが可能となり、パフォーマンスの向上の精度を格段にあげることが可能となりました。
指導者は、このような状況の中で好成績をあげるために最新の競技情勢や科学的知識、チームをまとめるマネジメント能力、アスリートやスタッフから適切な情報を聞き出すコミュニケーション能力など、広い知識やスキルが必要になります。また、国や地域、競技団体の政策などには、強化費に対する補助金が出たり、トレーニングセンターの利用などが優先的に使用できたり、使用料が免除になったり制度が設けられています。この対象になると各競技団体や日本オリンピック委員会(JOC)などから連絡があることもありますが、事務局で止まっていることも少なくないので、より良い環境や条件を求めて、色々な情報にも絶えずアンテナを張り、精通していなくてはなりません。このようにハイパフォーマンス領域に関与する指導者は、トレーニングのことだけを考えていれば良いわけで無く、様々な要因を考えて包括的にコーチングを行うことが必要となります。
ハイパフォーマンススポーツの社会的位置づけ
ハイパフォーマンススポーツに参加しているアスリートや指導者は、その注目度やマスコミへの露出による影響力が大きいことから、スポーツ活動をする者達の模範となるように努めることが求められます。また、その活動費を所属先やスポンサー企業、国からの強化費などから資金が少なからず投資されていることを考えると、自身の存在価値などを社会的視点から認識するようにしなければなりません。このようにハイパフォーマンスコーチングを行う指導者は、コーチングのみではなく、その立ち振る舞いについても世間の注目が集まることを認識しておくことが必要になることを覚えておきましょう。
指導者を取り巻く環境
先述した通り、ハイパフォーマンスコーチングを行う指導者は、様々な要因を考えなくてはなりません。高度な競技パフォーマンスの獲得には、高度なトレーニングに継続して取り組むことが求められます。そのためには、アスリートは年間を通じて良く考えられた計画の下、トレーニングに励むことが必要になるでしょう。しかし、競技以外に多くのタスクが存在するようでは、競技に専念することができずに、最適なトレーニング負荷をかけることができなくなってしまいます。ハイパフォーマンススポーツにおいては、アスリートが競技に専念することができる環境が必要になり、最大限のトレーニング負荷と効率的な疲労回復やリフレッシュが行える環境を作る必要があります。これに対応して、指導者も先にあげた様々な要因を最適にこなすためにも、競技力の向上のための活動に専念することが求められ、その結果、コーチングに専念することができるフルタイム化が進んできています。このフルタイムの指導者は、成績の優劣によって自身の進退が左右されることが一般的であり、とてもシビアな職業といえるでしょう。
ハイパフォーマンスコーチングにおいて求められるコーチの役割
①多様性
近年のハイパフォーマンスコーチングでは、指導者の役割が多様化しています。例えば、15人制ラグビーの2020年度男子日本代表チームでは、ヘッドコーチの下に、アタックコーチ、ディフェンスコーチ、スクラムコーチ、ストレングス&コンディショニングコーチ(2名)、メンタルコーチの計6名のコーチが配置されています。また、サッカーの2022FIFAワールドカップ日本代表(男子)チームでは、監督の下に、コーチ(3名)、フィジカルコーチ、ゴールキーパーコーチ(2名)の計6名のコーチが配置されています。日本代表チームのようなハイパフォーマンスコーチングの現場においては、コーチングが細分化されており、それに伴い複数のコーチが関わって分担制が敷かれていることが分かります。このように分業化されたコーチング体制を取るようなチームでは、ヘッドコーチ(監督)は自身のコーチングをするだけで良いわけではなく、複数いるコーチ達の全員のコーディネーションやマネジメント能力が求められており、コーチの役割は多様化してきていると言えます。
②強化計画
ハイパフォーマンスコーチングでは、担当するアスリートやチームをどのようにして強化していくかを考えなくてはなりません。そのためには、強化計画をたてて進めて行くことが良いでしょう。強化計画には、どのような内容が必要でしょうか?内容を考えてみましょう。
強化計画には、まず、①ビジョンの作成をすると良いでしょう。このビジョンには、自身の指導理念や価値観を盛り込み、強化策の目的を含め、自分が目指すものを明文化し、確認をするとよいでしょう。次に、②現状分析をしましょう。この現状分析には、まずコーチング対象者の戦力分析をし、強み・弱みの把握を行います。また、ギャップ分析を用いることによって、自身のコーチングするアスリート・チームの現状が把握でき、目的と現実の差異を明らかにして、問題点を正しく認識することができます。問題点を正しく認識することはとても大切で、無駄をなくし、限られたトレーニング時間をより効果的、効率的そして着実に目標に向かって突き進むことができます。また、アスリートの選抜方法やチームの構築の方針などを分析し、自身のコーチング対象を客観的にその競技での立ち位置を認識することができます。次に、③目標の設定を行います。この目標設定は、達成目標として目指す成績を掲げ、その成績を得るために必要なパフォーマンスをパフォーマンス目標として掲げます。例えば、サッカーでアジアで一番になることが強化戦略プランの目的であった場合、達成目標はアジア大会での優勝となります。また、パフォーマンス目標は、アジア大会で優勝するために必要なパフォーマンスとなり、シュート数やシュートの決定率、ゴールキーパーのセーブ率、ボールのキープ率(ポゼッション)などの目標設定を行います。次に、④マイルストーンの設定として、時間的計画を立てます。強化計画の進捗状況を管理するためにチェックポイントを幾つか設定し、いつまでに何を達成させるのか?を明確にすることにより、進度の調整を行えるようにします。最後に⑤実施計画を立てます。これは、実際の強化計画をたてます。より具体的になるように参加する試合や強化合宿などのスケジュールを立て、予算計画やスタッフの配置、評価指標、リスクマネジメントなどを含めて立案しましょう。
ここで上げたのは、一例です。皆さんの競技種目や対象となる年齢やレベルにより、また違った強化戦略プランが出来上がるでしょう。
表 強化戦略プランの立案ポイント(例)
①ビジョン
指導理念・価値
強化策の目的
②現状分析
戦力分析(ギャップ)
ライバル、自分以外の分析
選手選抜の方法、リクルートの方法
チーム構築の方針
環境の分析
③目標
達成目標
パフォーマンス目標
④マイルストーンの設定
⑤実施計画
取り組み内容
強化拠点
スポーツ医科学の活用
スタッフの配置(役割分担)
評価指標
リスクマネジメント
科学を用いたハイパフォーマンスコーチングの成功例
皆さんは、北島康介さんを知っていますか?北島さんは本校の卒業生で2000年シドニーオリンピックから2012年ロンドンオリンピックまでの4回のオリンピックに出場し、2004年アテネオリンピックと2008年北京オリンピックにおいて、競泳の100m平泳ぎおよび200m平泳ぎで金メダルを獲得し、前人未到の平泳ぎ2種目2連覇を達成した競泳界のレジェンドと呼ばれている人です。
この北島さんを指導した平井伯昌コーチ(現日本水泳連盟競泳委員長・ナショナルチームヘッドコーチ)は、1996年8月に彼の担当になった際に、他の選手に比べて高い集中力と優れた忍耐力を兼ね備えている点を高く評価していました。翌年、中学3年生となった北島選手は、第37回全国中学校水泳競技大会にて100m平泳ぎで1分5秒57、200m平泳ぎで2分23秒20で優勝をし、平井コーチは共にオリンピックを目指す決意をしました。
この時、平井コーチは北島選手のピークパフォーマンスは26歳になる2008年頃に迎えると考えて12年間の長期プランをたてました。この長期プランは、4年毎のオリンピックを1サイクルとして捉えて目標をたてました。1サイクル目はオリンピック出場、2サイクルおよび3サイクルはオリンピックで平泳ぎ種目の金メダル獲得を達成することを目標(達成目標)としました。1サイクル目の達成目標には、2000年4月に行われるシドニーオリンピック代表選考会で当時の100m平泳ぎの日本記録(1分1秒5)で優勝することで達成することができると考えました。また、平泳ぎの日本記録は世界的にみても決勝(8位以内)に残れるレベルであった為、このタイムで泳げればメダルも狙えると予想していました。その結果、100m平泳ぎを1分1秒41で見事優勝し、シドニーオリンピック出場の目標を達成し、100m平泳ぎでは4位入賞を果たします。
しかし、この時、2・3サイクル目の達成目標を考えると、平井コーチはすでにハイパフォーマンス領域となった北島選手のパフォーマンスの向上を一人で行うことに限界を感じ、専門家の力を集結してコーチングに当たることを決意します。そこで、平井コーチは泳速の向上およびスタート・ターン動作の改善のためにバイオメカニクス、レースペースの立案のためにパフォーマンス(レース)分析、トレーニングの新たな開発・管理のためにスポーツ生理学、筋力アップのためにストレングス&コンディショニング、疲労回復や怪我の予防・治療のためにマッサージ・理学療法の各専門家を集め、チームを作ることでハイパフォーマンスの向上を目指しました。
奇しくもちょうど同じ時期に、国策として国際競技力の向上を目的とした施設の国立スポーツ科学センター(JISS)が2001年10月に開所したことにより、各分野のフルタイムの研究員(科学的サポートスタッフ)が一つの場所に集まっていました。このJISSの研究員の方々を中心として競泳の競技特性と北島選手との相性を考慮し、チームの人選を行いました。また、北島選手が日頃トレーニングをしていたスイミングクラブは、JISSの近隣に位置し、移動時間が30分圏内にあったこともあり、日常のトレーニングを積むうえで移動のストレスも殆どない環境でした。このように天の時、地の利、そして人の輪が揃った状況でチームを結成することができました。
以下に、チームを組んで科学的サポートを利用した平井コーチのハイパフォーマンスコーチングの一例を示します。
【泳法分析を用いた泳法改善】
平井コーチは、絶対的な泳速の向上のために北島選手の泳法を分析し、科学的側面からの泳法の改善を行うこととしました。はじめは、練習中の泳ぎを分析の対象としていましたが、測定日になると北島選手の体調や調子が悪く、その時の彼のパフォーマンスとは大きく離れた状態になってしまい、分析されたデータは信憑性に欠けたものとなってしまっていました。そこで、ベストパフォーマンスの発揮される実際のレースでの泳法分析ができないかと考えた結果、日本水泳連盟競泳委員会が行っていたレース中の泳法(ストローク)分析のデータを利用することにしました。この分析結果を科学サポート担当者と共に分析し、日本水泳連盟科学委員会が持っていた当時の前世界記録保持者のデータと比較しながら、泳法改善のポイントのミーティングを行いました。
平泳ぎは競泳の4種目の中で最も加減速が大きい泳法であり、後方へのキック(足のけり)動作の後のプル(手のかき)動作によって最も泳速が速く(ピークに)なり、その後、進行方向への足引き動作によりブレーキがかかり、最も泳速が遅くなります。その後、キック(蹴り出し)動作で加速していきます。この平泳ぎの特徴から、前世界記録保持者とのデータを比較し、プル動作後のピーク速度が0.3m/s遅かったことと、キック動作時の速度の立ち上がりが鈍いことが判明しました。これを受けて平井コーチは、動作の改善としてプル動作時の手の広げ方およびキック時の足引きを浅く強く蹴り出す事ように指示を出しました。また、この動作の改善には、筋力のアップが必要不可欠であることから、ウェイトトレーニングの導入を行いました。この成果が表れるまでに2001年度から2003年度にかけて2年間程の時間を有しましたが、2003年7月にスペイン・バルセロナで行われた第10回世界水泳選手権で見事に世界新記録を樹立し、金メダルを獲得することができました。また、ウェイトトレーニングは、ストレングス&コンディショニングスタッフに指導を仰ぎ、その結果、体重が65㎏から72kgに増加し、肉体改造にも成功しました。

【動作分析によるスタート局面のパフォーマンスの改善】
北島選手が国際大会に出場した時のレースで15mの通過が他の海外の選手に比べ、頭2つ程の遅れをとることがありました。また、世界新記録で優勝した2003年度の世界水泳選手権の100m平泳ぎ決勝でも、同様に15mのスタート局面の通過タイムが北島選手よりも速い選手がいました。平井コーチは、このスタート局面においてパフォーマンスの向上の余地があると考えました。
北島選手および平井コーチは、以前にもスタート動作の動作分析を行った経験がありました。北島選手がまだ中学生であった当時、平井コーチの担当するチームに50mバタフライで日本新記録を樹立した選手が在籍していました。この選手は15mまでのスタート局面が日本のトップレベルのパフォーマンスであったことから、この選手をお手本とし、北島選手との違いを分析しました。そして、スタート台からの飛び出し角度が北島選手の方が低く飛び出していることにより、50㎝以上手前で入水をしていました。このお手本選手のスタートは、「空中を移動した方が水中を移動するより抵抗が少なくなる」といった考えから、出来るだけ空中を移動して遠くに一点入水をするといった方法を取っていました。北島選手はこのスタート法をマスターしていました。
平井コーチがこのスタートの仕方を説明するとJISSの研究員は違和感を感じ、物理学的法則に沿ったスタート動作の解説を行いました。しかし、平井コーチは今まで行ってきたスタート法を信じて疑わなかったため、JISS研究員はこの解説を証明するためにスタート局面の動作分析を行うことを提案しました。この測定には、チームメイトで北島選手よりも15m通過タイムが速い選手がいたため、その選手も一緒にデータを取ることとしました。その結果、北島選手のスタートは高く遠くへ飛んで入水していましたが、スタート合図から脚がスタート台を離れるまでの時間(リアクションタイム)が長いことが判明しました。また、遠くへ入水するために上方への飛び出しを意識してスタート台からの飛び出し角度が大きくなっており、入水地点は遠くになっているものの、その後の入水角度が大きく水平方向への姿勢の変換が急激になるため、ここで大きな減速が生じていることが判明しました。このデータから研究員は、北島選手のパフォーマンスの改善には、高く飛び出し遠くに入水する意識ではなく、前へ鋭く突き刺さるようなイメージで入水角度を鋭く、速くすることを提案しました。この提案を受けて、平井コーチはスタート台の足の位置を水平方向への動き出しと速度アップに適したものに変え、上へ飛び出すのではなく、しっかりとスタート台を蹴って鋭角に入水し、その後の姿勢の方法転換を遅らせるように指導をしました。このスタート動作の改善の効果は、8月にギリシャで行われたアテネオリンピック大会の100m平泳ぎ決勝での15m通過タイムが、前年度の世界記録を樹立したレースより約0.2秒も短縮するという形で現れました。

【レース分析による戦術の立案】
日本水泳連盟(JASF)科学委員会は、1990年代より日本水泳選手権においてレース分析を行っています。しかし、海外で行われる国際大会では、レース分析などは行っていなく、2002年釜山アジア大会にて初めてレース分析およびレース映像の撮影をJASF科学委員会によって行われました。このレース分析は、レースペースの立案だけではなく、トレーニング目標設定やライバルの調子の把握やレース展開などの貴重な情報源となることから、日本選手権だけではなく、海外で行われる国際大会でも実施して欲しいとの要望がナショナルチームから出され、2003年度から海外で行われる国際大会でもレース分析のサポートが行われるようになりました。平井コーチは、このレース分析をいち早く用いてパフォーマンスの向上や大会で勝つための戦術の立案に利用していました。
2004年7月、アテネオリンピックを1か月後に控えた全米水泳選手権において、最大のライバルと目されていたブレンダン・ハンセン選手が100m・200m平泳ぎにおいて、北島選手が持っていた世界新記録を破りました。このレースを分析してみると理想的なペース配分で現時点では完璧なレース展開でした。一方、その時期の北島選手は調子が上がらず決して順調なトレーニングを積んでいるとは言えない状況でした。オリンピックへ向けて何とか調子を上げてきた北島選手を見て、平井コーチはハンセン選手に自分の泳ぎをさせては勝ち目が無いと考えていました。そこで、平井コーチは北島選手に予選から攻めのレースをすることを指示し、消耗戦を仕掛け、相手に自分のレースをさせない作戦をとることとしました。オリンピック当日、午前中の予選で北島選手が五輪新記録をマークすると午後の準決勝ではハンセン選手が北島選手が出した五輪記録を破るという展開で二人はハイレベルの記録をマークしあいました。しかし、この日の二人は同じ組でレースをすることがなく、翌日の決勝での直接対決に注目が集まりました。
平井コーチは、決勝に向け北島選手とハンセン選手の五輪新記録をマークしたレース分析を一つの分析表にまとめたものを参考に作戦を練ることとしました。北島選手は前年の世界水泳選手権で前半の50mを6位で折り返し、後半に猛烈な追い上げを見せ優勝していました。これは、平井コーチの戦略で後半の強い北島選手を印象付けて、次年度のアテネオリンピックへの布石を打っていました。この後半の強い北島選手像を利用して作戦をたてることとしました。平井コーチの作戦では、「北島選手がスタート局面で前に出る→ハンセン選手は後半の北島選手の強さを知っているので、慌てて追いつき、追い越そうとしてくる→50mのターンでは二人は並ぶ→ターンアウト(浮き上がり)で北島選手が前に出る→それを追って75m付近までに並ぼうとしてくるので焦らずに、ラスト20mは大きなストロークを維持し、最後のタッチは伸びてするようにすること」と、北島選手には二人が一緒に泳いだらどういうレース展開になるかを説明し、冷静に自分の泳ぎをするように指示をしました。結果は、平井コーチの作戦通りのレース展開になり、見事、金メダルを獲得しました。
このように、ハイパフォーマンス領域のコーチングでは、コーチ一人だけの力では好成績を収めることが困難になってきています。国際競技力の向上のためのコーチングは、専門性の高いスタッフを集め、高度に組織化されたチームを作り、戦略的に情報を収集し、絶えずライバル達の先を行くことが求められます。コーチは、日々、自分のコーチングを振り返り、評価、省察をし、新たに学び続けることが必要です。

日体大アスリートサポートシステム
皆さんは、本学にも競技力向上をサポートするシステムがあることを知っていますか?日体大アスリートサポートシステム(Nittaidai Athlete Support System)と称するサポートシステムは、その英語表記の頭文字をとって、通称、「NASS」(https://www.nittai.ac.jp/about/approach/ad/index.html#ct-2)と呼ばれており、“日体大から世界へはばたこう”とのスローガンを掲げ、日体大の学生および卒業生を対象に競技力向上を目的にしたサポート活動を行っています。このサポートシステムは、本学の100年以上に渡って蓄積されてきた知識、経験を集結させ、新たな試みを思考しながら、温故知新のサポートを提供しています。
もちろん、このNASSにも高度な専門性を有した研究者が配置されており、本学の教員が指揮を執っています。このNASSは、医・科学サポート、パラアスリートサポート、コーチングサポートから構成されており、医・科学サポートは6種類(パフォーマンス分析・トレーニング・メディカル・心理・栄養・女性アスリート)のサポート分門から構成され、競技レベル別に分けた段階的なサポート活動を展開しています。NASSの専門スタッフがトレーニングや競技会に出向いてサポート活動を行うことも重要ですが、専門スタッフは多くの部活動へのサポート活動をしなくてはならず、いつもチームについてくれるわけではありません。部員自らが知識を付け、チームにデータの提供や指導ができるようになれば、常時、試合のデータ取得や安全で効果的なトレーニングを実施することが可能になります。そこで、NASSでは学生達を対象にセミナー等を開き、学生スタッフの養成も行っています。将来、パフォーマンス分析を使って卒業研究をしてみたい人やサポート活動などの知識や経験を活かして就職活動を行いたい人などは、ぜひ、このNASSのセミナーを受けてみると良いでしょう。
スポーツの指導者は、競技特性の把握やアントラージュ(関連するスタッフ)の統括、対象者の現状を把握することなどは、どのレベル、どの状況のコーチングでも必須になります。しかし、ハイパフォーマンスコーチングにおいて好成績を出すためには、対戦相手の状況や世界の趨勢に敏感になって情報の収集を行い、ライバル達に先んじて新たなトレーニングや戦略・戦術の立案などをしていくことが求められます。また、時にはコーチ仲間と意見の交換をしたり、他の種目に目を向けて自分のコーチングを省察するなど新たな気づきを得ることもとても重要となっていくでしょう。
ハイパフォーマンスの指導者は、周囲からの注目や期待が高いことからストレスフルになることも予想されます。また、コーチングにのめり込み過ぎて私生活を犠牲にしてしまうこともあるでしょう。将来、皆さんがハイパフォーマンスコーチングに携わるような時は、アスリートセンタードを実施しながら、自分や家族の人生も豊かにしていくことも大切にしましょう。
